一昨日のゲシュタルト療法ワークショップ。
個人ワークのとき、ひさしぶりに大型構造物を作りあげた。
8世紀後半に体験した、僕のとある過去生の、重要な1シーン。
..という扱いで、以前、退行催眠のDVDでひとりワークをやったときに出てきた場面。(過去生なんてものがあるかどうかはゲシュタルトのワークの進行にとってどうでも良いです)
構造物は、トスカーナのとある街の城壁。城壁の向こうには森と麦畑、草原が交互に続いている。
以下の写真2枚で、手前側が城内..というか、城壁上の通路。向こう側は外の世界。
僕は、その街で、軍隊の最高幹部のような重要な位置にいる。
住民からの信頼は厚い。
赤いクッションの置かれている場所が、そのシーンで最初僕が立っていた場所。
僕は、その城壁の上で、腕を組んで外の世界を見ている。後ろからは、活気づいた住民の声が聞こえていた。このシーンで、僕は、何か重要なことを考えていた。
ワークは、長く意識下だけにあったこのシーンを自由に感じながら再体験できたことで、さらに大きく前に進んだ。
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なんでこのシーンが出てきたのかというと、ざっくり言うとこんな流れ:
そもそも、このワークで持ち出したテーマは、「重たい仕事と引越の片づけとの両方が気になっているけど何も進まない。」
この一週間くらいずっとそのことが頭から離れないのに、行動できないでいて、まったく同じ状況が続いている。
他のこともなんとなく手につかない。
もろもろの期限はすぐそこ。仕事の件は週明け早々に打ち合わせ。引越は来週末。さすがにこれはまずいだろうという気がしているというもの。
[1]
..という状況に意識を向けていたら、右腕が肩から手にかけてが昔からいつも緊張気味なことに気がついた。
[2]
「この昔から抱えている緊張をそろそろ手放すべきだ」という気がしてきた。
[3]
..と思って手放すイメージをくり返していたら、自分の眼前に右から左に流れる川のようなイメージが湧いてきた。
その流れに意識を向けていると、とても心地よい。自分を自然にどこかあるべき場所に運んでくれそう。
[4]
そうか。
がんばろうとしないで、流れに任せてればなんとかなるのか、と思った。
[5]
そう思ったとき、意識では焦っているけど、体はまったく焦っていないことに気づく
[6]
「そういえば、新しいセミナーの資料を作るときもいつもそうだな」と気づく。
どんなに意識で焦っているときでも、身体が動きたくないと言っているときは何も動かない。
でも、身体が「間に合う」と言っているときは、たとえ直前まで何もできていなくても、結局最後には帳尻があっている。
[7]
で、「流れに身を任せていればいいのか」と思った。
[8]
そうしたら、手前に見えていた川のちょい向こうに、城壁の外壁が見えてきた。ちょっと懐かしい感覚。
[9]
感じるままに、頭の中にあるものを外に表現してみた。
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ひととおり構造物を作り上げてその場に入ると、深いところで、何か大切な感情に触れた気がした。
涙がちょっとにじんだ。
いろいろな場所に移動してこのシーンを再体験する。
イメージに湧いてくるすべてのものは自分の意識下にあるものの象徴。そのすべてを自由に存分に体験する。
そして、「ひととおり体験したかな」と感じたところで、このシーンの最初に自分が立っていた場所に赤いクッションを置いて、その場を離れてみた。
そのとき、自分が何かの役割から離れたような感じがした。
自分がこだわらなくてよい位置。手放してもよい位置。そして、戻りたければいつでも戻れる位置。
「自分は、何か役割のようなものにとらわれすぎていたかもしれない」という気がちらっと。
ひとつのものをシンボルになおすことができると、他のものも同様に扱いやすくなる。
同じ流れで、城壁の向こうの気に入った場所と、この世界全体を見渡す位置とにも、同じ色のクッションを置く。
そのすべてが、自分の意識の象徴。そのすべてが、こだわらなくてよいもの。手放してよいもの。戻りたければいつでも戻れるもの。感じるすべては自分の一部。
最後は、世界との一体感を存分に感じ、このワークで起こったすべてのことを自分のものとしてしっかり受け止め直してワークは終わり。
箱庭から抜け出して、現実に戻ってきた。
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ゲシュタルト療法のワークは、セラピーの場というより、クリエイティブの場。
心の中にある未解決は、感じるままに自由にクリエイティブを発揮できたとき、自然に解消していく。
人生は、自由な創造。「心の問題」も、「心の問題」なんてつまらない言い方もできるけど、本当は、「創造の不自由」と言い換えるべきだと僕は思う。
この楽しさを、もっと上手に人に伝えられないものか。
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そういえば、「いろいろな場所に移動して再体験」していたとき、街の外に出て、緩やかな傾斜のある場所で寝転んだシーンがあった。
武器も何も持たずにひとりでふらっと外に行き、寝転んで、平和の中にただひたすら自分を感じていた。
今思うと、あれも何かの象徴かもしれない。
自分の中の大切な何かを攻撃されないように作られた城壁。意識の絶対安全な領域から外に出るときには、自分を守れるような武器を持っていくのが当然だという世界観。
でも、実際には、何も持たずに外の世界に出ても、ただ平和を感じる以外に何も起こらなかった。
僕にとって新しい感覚だった。
いずれまた、何かのワークで似たようなシーンが登場するのかもしれない。
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下の写真は、宴のあと。反対側から。手前の赤いクッションが、「城壁の向こうの気に入った場所」の象徴。
部屋の右奥から無造作に放り投げたはずなのに、あとから見たら、期せずして、3つのクッションはきれいに一列に並んでいた。
これもまたゲシュタルトらしい。
そういえば、このワークでは、扱う道具とのシンクロもいろいろあった。
シンクロがいろいろ折り重なっているとしたら、それは、僕にとって、ものごとがうまく流れているということ、表面的なできごとにとらわれすぎず、自然な感覚に身を任せるべきときだということを示すサイン。